2024/08/07 11:45
お久しぶりでございます。
年々暑さが切実になっていますね。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
わたしは「ぼく先」最新巻出版後の春夏、方方に出向き営業、原画展や沢山の再会、今後の活動相談の機会、副業(株です)の強化と試練など経て、ぶっ倒れました!
ようやく来たか。そう思いました。
熱中症のような症状で一週間の強制休養となりました。きっとコロナウィルスが起因だったと思います。
この夏、疲労を溜めておられるかた、感染には重々お気を付けください。
みなさまが元気に夏休みを迎えられますよう願っています。
さて、8月6日は自著「ぼくと先輩」主人公・近場創大の誕生日だったので、久々に絵を描きました。
次の物語のピースは山ほど在るのですが、なかでも「馬」が登場する場面は、いつも心のどこかに在り続けています。
画家とは、じぶんの心象を画面に描いて表わすひとのことです。
人間が人間を描きやすいのは、自ら人間の肉体を持って操っているという、既存の身体感覚の為せる術です。
生の感覚がともなった、文字通り生き血を分けた作画表現が可能です。
記号化されたデフォルメ状態の漫画絵を練習しているのみだと、表現に限界が来ます。
キティちゃんを描き続けて、自然体の「ねこ」そのものが描けるようになるのではありませんよね。
じぶんが何を表現したいかを見極めて、そこからは修行です。
とはいえ、わたしも最初から人体を難なく描けたのではなくて、描写修行のほかに、遠大かつ偶然の一致があったと思っています。
健康維持のための日々運動していますが、その習慣によって身体感覚が磨かれ、作画能力の神経へと帰結したと感じています。
まずはじぶんの身体の構造や動きを見ること。
画家にはもっと強く言います、四の五の言ってないで身体を動かせと。
オリンピック開催中の今なら、強化した肉体をまじまじと見て記憶する絶好の機会です。
次に、逆説的なことを言います。
画家によっては身体感覚うんぬんはお構いなしに、最初から異様に、「描ける」物体があるのです。
チート能力みたいなものです。
わたしでいうと、構造を詳しく知らないけれど「船」をなんとなく描けて、そして何よりも「馬」がすんなり描けます。
こどもの頃からするすると描けた、とだけ記憶しているのですが、今回はあえて、チート能力の起因を身体的経験から探ってみましょう。
現実のわたしは、馬に跨がったことは、ポニーに一度だけ。間近で見たのだって数回だけです。
穏やかそうで、スタイルが格好よくて好きですが、大きいから正直、ちょっと怖い。
小学校の半ば頃に読んだものの中(リボンの騎士か、ファンタジー漫画だったか)に、一対の、白と黒の馬が見開きいっぱいにバーン!と登場しました(今思うとタロットカードの“戦車”の札によく似ています)。
わたしは大変驚き、これを模写しました。何度も描き連ねました。
ちがう、もっと動いてるんだ、目の前に飛び出てくる。
止めどない情熱で表現に走るエネルギーは何にも勝る鍛錬でした。
その後も図鑑などを見て、馬を描き続けたと思います(しかしここはちょっと記憶がない)。
画家にとって表現の初期衝動とは、対象物と自らとを一体化する欲望に等しく、そうして貪欲に体得したものは自転車に乗ることや林檎の皮を剝く感覚と同じく、一生再現可能な身体能力になります。
よって、情熱があろうがなかろうが、わたしはいつのときも、馬が描ける感覚を持って生きているのです。
心理学的に言うと、意識の深いところで馬を描けると確信しているので、歯磨きレベルで容易に再現可能である。
スピリチュアル的にいうと、前世わたしは馬だった。
うーん。さらに漫画家として、物語的に言おう!
厩舎のまわりには野良猫が住みついていて、中庭はこねこたちの遊び場だった。
わたし(馬)はこねこを見て、この世で一番かわいいものだと思った。
仲良くしたい、触れてみたいな。
ずっとずっと、このこたちを見ていたいと願った。
この中庭、この天国で。
身体と芸術を結び、さらに物語へとつなげていくのがわたしの命です。
命がある限り、物語は止みません。
馬とこねこの情景もまた、「ぼくと先輩」の一場面となるかもしれません。
木村さくら
*「ぼくと先輩」制作にまつわることをブログ書いていきます。題して「ぼくと先輩の地中線」
本の感想やご質問もお待ちしています* CONTACT | 点点とぼくと先輩
追伸:点点YouTubeに1分半の作画動画を配信しました。ぜひ観てくださいね。